2011/01/09

名文は自分でつくる

「13日間で「名文」を書けるようになる方法」高橋源一郎

名著です。源さんが明治学院大学で行った「言語表現法」という授業が、まるまる講義形式でおさめられている本。そもそも「文章」とは何だろう?「名文」って?と、書くこと以前の根本的なことについて問うことから初めて、学生と一緒になって、読者も考えながら読み進めていくので、自分も講義を受けているような気分に。このやり方は源さんの「一億三千万人のための小説教室」という本でもつかわれていたけど、読み進めるにつれてなぜだか感動していくという不思議な効果があって、とても好きです。

ずっと前に読了していたものをもう一度、こんどは課題をやりながら読んだので、1回目と2回目の感想をそれぞれ載っけます。1回目と2回目のあいだは1年くらいあいてるので、もう内容ほとんど忘れてたから、うけた刺激の鮮度は同じくらい。


1回目の感想

長くて濃いなと思った。楽しく読んだけど大学レベルの講義としては難しい、というか頭使う。受講していた学生は本当に素晴らしかった。源さんが出した課題だから……という特別感もあるのかもしれない。でもはっきりいって他の学術的なふつうの課題よりは「しんどい」。私が受けていたら、不精の私も一夜漬けにならずにたっぷり時間をつかうだろうか。と、なんか自分のことばかり振り返って、凹んだりしました。大学までの学生生活で、きちんと勉強をやりとげた記憶がまったくないんですよね。受験勉強もそう。
源さんが用意してくる読み物も、カフカとか憲法とか詩とか、普段見慣れなくて頭をフル稼働させなくてはいけないものばかり。これをサッと講義中に読んで、「どうだった?」とにこやかに源さんが質問してくる。学生の中にはパッと答えきれるひともいたけれど、文章力と比べると即興で意見をまとめて発言する力が明らかに育ってない、と感じた。これは慣れしかないんだろうなあ。

「一億三千万人のための~」にもあったように、正解のない問いばかりがとびかって、頭をシェイクされる感じがした。名文を書こうなんて、意気込んでいた気持ちからも解放される。源さんは講義を通じて、学生に「大いに戸惑って欲しい」と言っていたけれど、私ももうずっとわだかまっている。自分でも課題をやってみたいなあ。


2回目

課題を超特急でやりながら読んだ。
やはり頭をつかうものだらけでしんどかったし、あまり書けなかった。でも途中から楽しかったかも。他の誰かになりきることで、自分のことを考えなくなるとき。私はだいたい自分のことで頭がいっぱいになっているので、そこから引き離されるのはけっこう面白かった。
誰かになりきるというのは想像してみるということ。その対象を分からないなりになりきってみることで、「自分以外のものを理解すること」の難しさを実感した。理解ってすぐにできることではないんだなあと思った。

課題は、とりあえず最後まではやく読んでしまいたい気持ちで書き飛ばしたので、手抜きのものが多い。ちょっともったいないとも思えるけど、やらずに読んだ1回目よりは、文章を書くことについて悩んだし戸惑った。
そしてやはり今回も、講義をうけた学生たちの課題のすばらしさに唸った。
どれも考え抜かれている印象を受けたし、センスも良いものばかりだった。
みんな「自分のは課題とちょっとずれてるかも……」と前置きしていたけれど、それは無難でありふれたアイデアの枠をこえて、その人たちが自分のアンテナにひっかかるものを追い求めたからだと思う。そしてそれは、やっぱり源さんが講師だからというのも大きい。源さんの講義では「正解」などいらないのだ、ということが強く主張されているので、学生の方も積極的にいろんな文章を見つけては源さんに挑戦している、という感じ。その分、表現についての新たな発見もたくさん出てくるし、その体験が楽しくてより課題に打ち込んでいるように見えた。

思考することと書くことは、同じくらいの量で行わなければと思った。書いてみることで初めて分かる、というのは面白い。私の文章をいちばん読みたがっているもうひとりの「私」と、それから読んでくれそうな「あなた」に向かって、自分の思いをちゃんと捕まえるような文章を書けるようになりたい。文章とは誰かに読んでもらうためにある、ということを忘れずに。



追記

学生の課題で私が特に驚いたのは、「誰かの詩を持ってきて、その作者になったつもりで書いた理由を考える」のとき。
源さんが指名したひとたちは、詩の説明のみならず、源さんの「いつ思いついたの?」とか「ここの表現がよくわからないんだけど?」といった突発的な質問にもこまかく答えられるレベルで、選んだ詩の作者になりきれていたこと。私もいちおう課題じぶんでやってみたけど、そこまで考えてなかったし!

そして好きなやつは、最後の「演説をつくってくる」という課題で、秋葉原通り魔事件(トラックでつっこんでたやつ)の犯人がサイトに書き込んだ実際の文章と、彼宛のレスというかたちで「演説」を表現したひと。
ふつう演説をもってきて、といわれたら政治家がやってるような、校長先生のスピーチのような形式を思い浮かべるはず。このひとの発表はそのイメージからとても自由で、だけど演説らしさは感じ取れていて、素直に感動しました。考え抜くと知らない場所に着地できるんだなあとおもって。

それもこれも源さんが「ストリップのお姉さんの肉体の美しさとバレエダンサーの肉体の美しさってどっちも同じだと思う」とかって面白い考え方を例として示しているからだよね。一見飛躍にみえるけれど、ちゃんと考えてみれば繋がりがある。関係ないようにみえるものに共通点を見つける楽しみを源さんが教えてくれたからこそなんだろうなあと、いうことを思ったけど抜け落ちてました。。



一回書いてみて少し距離をおいて眺めるための実験としてブログは役に立つ。ウェブに載せている以上、なにか変だと思ったら書き換えないと気が済まないし。
というわけで2回分の感想を載せてみたところ、ぜんぜん具体例が無いというのにきづく。
わ、ほんとだー。「学生たちの課題のすばらしさ」とか、源さんの講義で喋る内容がいかにユニークであるとか、ちゃんと書かないと何のことか分からないな。

大学で英語のライティングの必修講義を思い出す。講師は私の学科でダントツ一位の厳しさを誇るスーパーウーマンで(笑)、文と文の、あるいは段落と段落のつながりが少しでも不透明であるばあい、容赦なく赤ペンで「は?」とか「通じない」みたいな添削をバンバンされたんでした。
こっちとしてはじゅうぶん繋がりが分かるように書いてるつもりだけど、文の並べ方がおかしいと根本からダメ出しされたりして、悩んでるうちになにがなんだか……というのがしょっちゅうだった。おかげで本当に書けなかった長文の書き方をなんとなく身につけたけれど、それって「それで?次は?なんで?」と次の文章を促すような質問を自分に投げかけることで始まるよね。

ブログとかtwitterってあまり読み返さないでポストすることがざらだから、書いたあとで「なに、これ……」と 凹むことが多い。大学でやったようにじっくりと構造をつくっていけば解決するんだけど、なぜかウェブに載せる文章って一発勝負とかその時の勢いでやってしまう。なんででしょうねー。私がテストのたび見直しめんどくせっていってやらなかったのもきっと影響しているにちがいない。。

自分の書きたいことを極力もらさず記す作業は、骨がおれる。でも丁寧に書くとやっぱり読んでて「書いてよかった!」と思える。絵でもそうなんだよなあ。何事も体力、です。これからも続けます。

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